2017.07.06 Thursday 11:56

本:走ることについて語るときに僕の語ること 村上春樹 

特にファンと言うわけでは無いのですが、今回はタイトルに興味を持ち借りちゃいました。

 

体調不調時や結果が思うように出ない場合の自己分析、マラソン&トライアスロンでの体験談や仕事とトレーニングの両立について、そしてご本人にとって走りとは何ぞや的なお話など、小説から見え難い個人的な部分が垣間見れたような気がしました。また体力的ピークを (とっくに!!(´;ω;`)) 過ぎた自分にとって運動に対する氏のアプローチは共感できる部分が多くあり、なるほどなぁと勉強させていただきました。 

落書きあり!のシール(^^)

 

今週末、一番の親友がカナダで Sinister 7 を走ります!!

 

 

 


2017.06.28 Wednesday 14:08

本:僕は こう生きている 君はどうか

ぼくはこう生きている 君はどうか
2010/1/5
鶴見 俊輔 (著), 重松 清 (著)       
P144
重:
若い先生たちは教え子に語るべき自分の人生とか思いと言うものを持っていないから踏み込んでいかない。踏み込んでいかないから生徒が ”教え子” にならなくて ”生徒” のままでいる。だから遠い。お話を伺って思うのは、人生の重みのある言葉、話を聞くと言う事が、実は一番幸せな学び方なんじゃないかと思うんです。  
heepee:(笑)
まあ、若い先生たちは・・・と一括りなのがちと気になりますし(年齢に関係なく色々経験している先生も当然いるわけですから)今の学校の環境的にそれは難しいと言う現実も多々あります。でもだからこそ江戸時代からあった私塾的システム(学問だけではない)が必要ではないかとも話しておられます。 カナダでは home teaching なるものがかなり浸透してきていますが、似たような行き詰まりを多くの親が感じたからではないでしょうか。
****
P110
鶴:
30年後、看護師になった ”ひこうき雲” の主人公は、当時は人の死と言うものがどんなに重く、悲しく、悔しい事なのか、その意味を想像できなかったと後悔し、終末医療にかかわっていて思うのは、”その日” を見つめて最後の日々を過ごす人は実は幸せなのかもしれない、と言うんですね。 ”自分の生きてきた意味や、死んでいく意味について、ちゃんと考えることができるから”と。
そして ”どんなに考えても答えは出ないけれども、考えることが答えなんだ。死んでいく人にとっても、あとに残される人にとっても” と。 これは凄いと思いました。
****
P90
重:
多数決で ”賛成!賛成!” と言って押し切ってしまうという。今そういうかたちのいじめがずいぶんあるわけですが、一人になる事は恥ずかしいことだ、弱いことだという考え方植え付けられた背景に、実はその”多数決!”と言うのがあったんじゃないかと言う気がするんです。
鶴:
明治以前ですとね、例えば ”村八分” と言うのがあったでしょう。あれは非常に遅れたものだというふうに戦後民主主義は考えた。だけどあれは西洋の魔女裁判に比べると相当に立派なことなんですよ。
重:
火あぶりですからね魔女狩りは・・・。
鶴:
”村八分は” というのは排斥するけれども、”2分” は残すわけです。2分は田んぼの水利から外さない事、それと葬式には手伝う事。だから西洋の魔女の扱いとは随分違うんです。
英国では選挙に負けた時 ”我々は少数派だ。しかし大きな少数派だ。”という考え方がある。
少数派は大きな影響力を持っていて、多数派になったからといって何でも自由にやれると言うんじゃないんです。 そういう村八分とか少数派に対する考え方と、左右に関係なく、頼りになる人間と頼りにならない人間を見分ける力--、この二つが明治の半ばから欠如しちゃったんですよ。それが問題なんです。

2017.03.02 Thursday 12:13

本:アフロ記者が記者として書いてきたこと。退職したからこそ書けたこと。

 

アフロ記者が記者として書いてきたこと。退職したからこそ書けたこと。

2016/6/20稲垣えみ子 (著)

 

 

本文より抜粋:

 

誰に向かって。今なぜ、この記事を書くのか。その思いの裏付けのない記事を発信してはいけない・・・

私は偶然のめぐりあわせから、読者の悲鳴を聞いてしまった。それは一言で言えば、新聞は冷たい、と言う事だ。もっと具体的にに言えば、分かったようなことを偉そうに書いているだけで、ちっとも自分たちのことなんてわかろうとしていない、本当に自分と同じ人間が書いているとは思えないというのである・・・

”自らの血を流さない文章を書いてはいけない”。もしそこを外し、何かをピンセットでつまんで安全なところからあれこれ眺めわかった様な物言いをしようものなら、共感はたちまち反転し、深い失望と反発が待っているに違いないという強迫観念にさいなまれ続けた・・・
閉塞感とはつまるところ、人間が人間であることを許さない社会・・・全体が生き残るためには個はどこまでも後回しされ、誰もが置いていかれないよう、切り捨てられないようびくびくしながら生きている・・・
本当に言いたいことは、その人のどうしようもない弱さやコンプレックスから出てくると言ことだ。解決のつかない問題を抱えて苦しんでいる人は、たとえ意識しなくてもその答えをいつだって求めている・・・・何を見ても、誰に話を聞いても、解決のヒントになりそうなものは見逃さない。そしてわずかでも光を見いだした時、心から共感し、そのことを誰かに必死に伝えようとする。そして、その文章は同じように弱さを抱えた人を救う・・・
自分の欲望が他者に支配さえていく・・・・
快適はいつでも自分の先にあり、逃げ水のように延々と遠ざかる幻・・・だからこそ新製品が売れる・・・消費社会の本質なのだとしたら、この社会とはいったいなんなのでしょうか。そして我々とは・・・消費社会がますます栄えるための使い捨てのコマなのでしょうか・・・

2017.02.24 Friday 12:44

本:金魚のはなし (江戸創業金魚卸問屋)

 

戦争の為、すっかり下火になった金魚人気も30年代になると復活したそうです。娯楽の少ない時代、すぐにまた皆に愛される存在になったようですね・・・その癒し系の動きや姿形、金魚の全てが平和と直結していそうな雰囲気です。

 

 

P90より  

 

桶で売り歩く金魚売り

天秤棒に桶を吊るしてのんびりと売り歩く金魚売りを街でよく見かける様になりました・・・・金魚売りが来ることは一大イベントで、子供たちは首を長くして楽しみに待っていたものです。
当時は桶の内側には水が入るところまで漆が塗ってあり、夏は涼しく、冬は暖かく金魚が過ごせるようになっていました・・・・歩きながら桶の水が揺れることで、酸素を多く取り組むことが出来、移動中でも金魚が酸欠にならない工夫がなされていました。冬に漆を塗り直すのも金魚問屋の仕事でした・・・・
***
全然知りませんでした!実は凄いハイテク桶です。特にこの酸素を取り入れまで考慮されていたなんて・・・
この桶、今はどこで見れるのでしょうか!近所の民族博物館にありそうですね・・・
カバーも気に入ってます。

 

 


2016.12.29 Thursday 00:13

本:街角の遺物・遺構から見たパリ歴史図鑑

 

街角の遺物・遺構から見たパリ歴史図鑑                               

ドミニク レスブロ

 

 

かなりマニアックな一冊です。ちと文章は読み辛かったりするように思うのですが・・・

パリ市内に残っている様々な遺物・遺構それも筆者曰く”地面や軒先に隠れている奇妙な細部”から読み取る街の歴史は一味違って興味深く実物が見たくなる一冊かもです。

 

*馬の首都パリ

1900年当時パリには厩ロバがおよそ8万頭いた。この数字はフランス最大の馬の国とみなされていた北東部のムーズ県のそれより多かった・・・


2016.10.06 Thursday 14:11

本:ナミヤ雑貨店の奇蹟

 

ナミヤ雑貨店の奇蹟 – 2012/3/28 東野 圭吾 (著)

 

一見全くかかわりのない人達が、ナミヤ雑貨店を通して(時間さえ超えて)繋がっていく感覚。実際にはここまでダイレクトに対話はできないけれど、結局現実の世界でもやっぱり人の想いやつながりは脈々と影響し合ってその後の世界も作っていくと言いますか。普段自分の周りにはヒントになるものが散らばっている筈なんでしょうけれど、そこに気が付くかそれらに意味を見いだすかどうかは当たり前ですが、やっぱり本人次第ということですね・・・なんだか色々考えさせられました。

 

 

 


2016.06.17 Friday 17:54

探検家、36歳の憂鬱

JUGEMテーマ:読書

 

 

P-50〜51より

 

”表現は常に純粋な行為を侵食しようとする” 行為と現実の間に横たわる関係性を筆者は探検時に身をもって感じていたようです。

 

”書くことでも映像をとることでも何でもいいのだが、結果として表現に置き換えることを前提に何かの行為をおこす場合、その行為の純粋性を保つことは想像以上に難しい”。  ”ノンフィクション作品づくりにおいて、行為と表現は現場で激しくせめぎあっている。”

多くの人は文章を書く際、一切の飛躍を交えずに事実だけを忠実にかけるかどうか?という部分にその分岐点があると考えるであろうと述べた後に、”実はその手前にもう一つ分岐点があり、そちらの方が問題としてはむしろ複雑である”と語っている。

 

”ノンフィクションを成立させる本当の難しさは、書く時にそのノンフィクション性を成立させるのではなく、むしろその行為を行っているときにノンフィクション性を成立させることにある” と言うことらしい。ちとややこしい(笑)けれど納得。

 

EX. ”文章を書くことを前提に旅をする場合、その旅は文章化しようと言う意図の影響を受けるため、旅と言う行為そのものがフィクション、つまり作り物になってしまう可能性がある” ふむふむ。

 

あるトラブルが、”ライターが予期しないかたちで向こうから勝手に発生したのなら何も問題は無い。 しかし、もしライターがトラブル発生の前兆を敏感に嗅ぎ取り、何か書けるかもしれないと期待し、結果的にそれを呼び込む形で行動をとった場合、その瞬間に旅は純粋な意味での旅ではなくなってしまう・・・”

なるほどですね。 旅を面白くするためにちょっとだけ意図的に演劇化してしまったその時点で旅そのものがフィクション化してしまう、よって ”そう言う物をいくら事実として提示しても、出来上がった文章作品をノンフィクションと呼べるのかよく分からないのである。” と言うことですね。

 

自分のこれまでの経験と合わせてみても、その通りかもしれないと感じさせられました。 今後、所謂ノン・フィクションと言われる文章を読むにあたって、その受け取り方が少々変わってしまいそうです。  

 

*****

 

P153〜155

”彼らは至る所に腰を下ろして登山の疲れを癒していた。しかし癒していたのは果たして登山の疲れだったのだろうか。酸素濃度が平地の6,7割しかない富士山山頂。そこに無数の普通の人たちが群がる、ある種、異様な風景。 彼らはなぜ富士山に登るのだろうか?”
”私は自分がある種の病気であると思っている。そして申し訳ないが、あなたもある種の病気であると思っている。ここで言う病気とは、身体性が喪失してしまった現象を指している。現代の日常生活では、身体を使って世の中を知覚する機会が激減したため、私たちはそのことで苦しんでいる。大勢が富士山に登りたがるのは、無意識のどこかで身体性の回復を欲しているからなのではないだろうか。”
”物事を体験するとは、言語化できないような何かを身体で感じることだと言い換えることが出来る。探検や冒険をしていると圧倒的な生の感覚を享受するが、それは頭では無く身体全体で何かを知覚しているからだろうと、私は自分の体験から考えるようになった。” 
つまり筆者曰く、この圧倒的な生の感覚を普段知覚していないために、多くの人が、”ある種の病気”にかかってしまい、そしてその影響は地域差や職業差などに大きく左右される筈だと。 大都会に住みデスクワークに従事している人たちが最もこの病気の深刻な影響を受けている反面、農山村や漁業を営んでいる人たちであるならこの病気にかかることさえ無いはずであると述べています。となんだか自分にも思い当たる節がありまする。

 


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