2016.06.17 Friday 17:54

探検家、36歳の憂鬱

JUGEMテーマ:読書

 

 

P-50〜51より

 

”表現は常に純粋な行為を侵食しようとする” 行為と現実の間に横たわる関係性を筆者は探検時に身をもって感じていたようです。

 

”書くことでも映像をとることでも何でもいいのだが、結果として表現に置き換えることを前提に何かの行為をおこす場合、その行為の純粋性を保つことは想像以上に難しい”。  ”ノンフィクション作品づくりにおいて、行為と表現は現場で激しくせめぎあっている。”

多くの人は文章を書く際、一切の飛躍を交えずに事実だけを忠実にかけるかどうか?という部分にその分岐点があると考えるであろうと述べた後に、”実はその手前にもう一つ分岐点があり、そちらの方が問題としてはむしろ複雑である”と語っている。

 

”ノンフィクションを成立させる本当の難しさは、書く時にそのノンフィクション性を成立させるのではなく、むしろその行為を行っているときにノンフィクション性を成立させることにある” と言うことらしい。ちとややこしい(笑)けれど納得。

 

EX. ”文章を書くことを前提に旅をする場合、その旅は文章化しようと言う意図の影響を受けるため、旅と言う行為そのものがフィクション、つまり作り物になってしまう可能性がある” ふむふむ。

 

あるトラブルが、”ライターが予期しないかたちで向こうから勝手に発生したのなら何も問題は無い。 しかし、もしライターがトラブル発生の前兆を敏感に嗅ぎ取り、何か書けるかもしれないと期待し、結果的にそれを呼び込む形で行動をとった場合、その瞬間に旅は純粋な意味での旅ではなくなってしまう・・・”

なるほどですね。 旅を面白くするためにちょっとだけ意図的に演劇化してしまったその時点で旅そのものがフィクション化してしまう、よって ”そう言う物をいくら事実として提示しても、出来上がった文章作品をノンフィクションと呼べるのかよく分からないのである。” と言うことですね。

 

自分のこれまでの経験と合わせてみても、その通りかもしれないと感じさせられました。 今後、所謂ノン・フィクションと言われる文章を読むにあたって、その受け取り方が少々変わってしまいそうです。  

 

*****

 

P153〜155

”彼らは至る所に腰を下ろして登山の疲れを癒していた。しかし癒していたのは果たして登山の疲れだったのだろうか。酸素濃度が平地の6,7割しかない富士山山頂。そこに無数の普通の人たちが群がる、ある種、異様な風景。 彼らはなぜ富士山に登るのだろうか?”
”私は自分がある種の病気であると思っている。そして申し訳ないが、あなたもある種の病気であると思っている。ここで言う病気とは、身体性が喪失してしまった現象を指している。現代の日常生活では、身体を使って世の中を知覚する機会が激減したため、私たちはそのことで苦しんでいる。大勢が富士山に登りたがるのは、無意識のどこかで身体性の回復を欲しているからなのではないだろうか。”
”物事を体験するとは、言語化できないような何かを身体で感じることだと言い換えることが出来る。探検や冒険をしていると圧倒的な生の感覚を享受するが、それは頭では無く身体全体で何かを知覚しているからだろうと、私は自分の体験から考えるようになった。” 
つまり筆者曰く、この圧倒的な生の感覚を普段知覚していないために、多くの人が、”ある種の病気”にかかってしまい、そしてその影響は地域差や職業差などに大きく左右される筈だと。 大都会に住みデスクワークに従事している人たちが最もこの病気の深刻な影響を受けている反面、農山村や漁業を営んでいる人たちであるならこの病気にかかることさえ無いはずであると述べています。となんだか自分にも思い当たる節がありまする。

 


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